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◆東京支部の沿革◆

※本文章は、昭和26年卒石松愛弘(よしひろ)氏を中心にまとめられ平成24年11月に発行された「福岡県立宗像高等学校同窓会東京支部略史」を引用しました。

 

はじめに

 昭和7年(1932)生まれの私は少年の頃、“神郡宗像”という言葉をよく耳にしました。

 田島にある宗像大社は伊勢神宮、出雲大社と並ぶ、三代官幣大社の一つであることから、その地に暮らす宗像の者たちは、それなりの自覚と誇りを持つよう小学校(当時は国民小学校)で言い聞かされたものです。

 この度、宗像高校同窓会・東京支部の記録をまとめるよう先輩諸氏より仰せつかったことから、終戦前の昭和19年(1944)に発刊された「宗像郡誌」を何とか手に入れ、“神郡宗像”のいわれを調べてみました。

 “神郡宗像”については、「宗像郡誌・上編」の冒頭に記してあり、まず、その一部を引用します。

  

 「筑前国風土記」によると、「宗像神社辺津(へつ)宮」が田島村にある。これは宗像神社三座の一つで、田(た)心(ごり)姫が沖津宮(沖の島)、湍津(たぎつ)姫が中津宮(大島)におわし、市(いち)杵島(きしま)姫を祀る辺津宮を第一宮とする。そして、この辺津宮は古くは神湊の海辺にあったので、海(へ)濱宮(つのみや)ともいう。(へとは、海濱。津は助詞とある)

 

 また、そのいわれは日本書紀の冒頭、神代の巷に記され、私が小学校で教わった、日本で最も古い女神、天照大神と熊襲退治で有名な素戔嗚(すさのおの)尊(みこと)との深い関わりを知りました。

 現代人にはほど遠い昔話で、今の若者たちには縁のない話であろうが、戦前に生まれ育った私どもには、故郷宗像への思いにまつわることなのです。 

 ともあれ、宗像郡は博多と北九州工業地帯の中間に位置することから、戦後の復興と共にベッドタウン化して新住民の方々が増え、やがて宗像市の誕生を見ました。

 そして今、宗像市はかっておなじ郡下にあった福間、津屋崎が合併した福津市との関係など新しい時代への対応を問われているそうです(宗高同窓会長・福岡県議であった故伊豆善也氏の談話)。

 半世紀以上に及ぶ、そうした宗像の歴史の変遷同様、宗像高校同窓会・東京支部にも宗像郡人会、宗像中学同窓会から続く歴史があります。

 

 宗像高校同窓会・東京支部の歴史をまとめるにあたって時代区分をしてみると、まず戦前には、「宗像会」と称する宗像出身者の集まりがあったようです。そして、在京の学生や郷里宗像の様子を知らせる雑誌「宗像」が発行されていました。

 これは日本で最も古い郷土雑誌として西日本新聞にも紹介されていますが、第二次大戦勃発のため刊行が困難になり、戦後廃刊されました。

 そして昭和30年代、宗像において「宗像会」が発足し、これは宗像の町村長会の中に事務所をおいて、雑誌「宗像」も再刊されております。なお、宗像大社広報「宗像二十年の歩み」によると、宗像神社の社報「宗像」にも戦前の東京の郷土雑誌の趣旨が引き継がれていたようです。

 さて、戦前の歴史のなかで特筆すべきは「宗像塾」の存在です。上京した宗像出身者の学生の生活を支援する活動は極めて有意義で、郷土意識を高めるものでした。

 昭和31年に「在京宗像郡人会」が発足しました。

 これは学生に限らず、宗像郡出身者の集まりでしたから会員の顔ぶれも多彩で、郷土色豊かな会が行われていました。この郡人会の集まりは昭和50年頃まで続きます。そして、この在京宗像郡人会とおなじ頃か少し遅れて、「宗像高校同窓会・東京支部」ができます。

 こうした経過の前後、旧制宗像中学同窓会・東京支部が存在したはずですが、資料や記録がなく、明らかでありません。推測すれば、組織としての東京支部という形ではなくて、クラスごとに、あるいは親しい者同士が随時、集まっていたようにも思えます。

 そして、宗高同窓会・東京支部第一回総会は、宗中出身者と高校出身者が集まり、合同でスタートしました。

 このように、宗高東京支部と在京郡人会が併存していましたが、当時の状況は郡人会が主流で、会合も毎年行われていましたが、宗高の方は時たま開催される程度でした。したがって、東京においては、昭和30年代から、50年の初めまで、郡人会が宗像を代表する形になっていました。そして、時の流れと共に、郡人会の方々の高齢化と宗高卒の増加によって、50年代の半ばから、宗像の代表は郡人会から宗高東京支部へバトンタッチされて行きました。

 以上、明治以降の先輩諸氏の東京における活動を追ってきましたが、この度の宗像高校同窓会・東京支部の歴史をまとめるにあたって、「前史」ともいうべき部分にまず着目すべきだと思うに至りました。

 そこで、「前史」に関して、戦前の代表として「宗像塾」、戦後は「在京宗像郡人会」を中心にまとめました。宗高東京支部の歴史はやや概括的になっていますが、次回の作業の課題にしたいと思います。

 

宗像塾

 明治、大正、昭和と続く時代の中で、宗像から東京を目指して学生として、あるいは新しい仕事を求めて多くの人々が故郷を旅立ち、各方面で活躍された。

 そうした中で、特筆すべきものの一つに「宗像塾」の存在がある。東京小石川、白山御殿に「宗像塾」と称して創設されたのが、明治30年10月。青雲の志を抱いて上京した宗像出身の学生たちのための寄宿舎だった。その生みの親が*伊豆凡(つね)夫等とされているが、他の人物については、記述不明で割愛せざるをえない。

 伊豆凡(つね)夫……赤間町富士原出身。明治40年(1907)陸軍少将に任ぜられた。故郷宗像を思う心厚く、上京して勉学に励む若者たちの生活を支援するため、宗像塾を設けられた。

 

 “出光OB会用”なる資料によれば、昭和29年春より30年秋にかけ54回にわたって、夕刊フクニチ新聞に連載された記事があるが、そのなかで「宗像人経済会三羽烏」として、日立製作所の倉田主税、出光興産の出光佐三八幡製鉄の安永渡(とっ)平(ぺい)の名をあげている。これに、戦前の朝鮮総督府で活躍した林繁蔵、日本通運の安座上(あざがみ)真(まこと)を加えた五名を中心として、それぞれの業績を述べている。

 明治以降「宗像塾」で育った人物として、前記の宗像郡赤間町徳重出身の林繁蔵は、国運を賭した明治38年(1905)の日露戦争の前後、同郷の倉田主税と起居を共にして、時局を語り合い、壮大な抱負を抱いて大陸への野心に燃えたという。

 安永渡平(八幡製鉄所長・八幡化学社長)は東大在学中、三年間、小石川町にあった「宗像塾」で過ごしたが、後年、折に触れて「宗像塾」の思い出を語られ、感謝されていた。

 「宗像塾」の創設者、伊豆凡夫亡き後は、有志が自主運営なされるが、場所も何度か代わりながら、昭和20年の半ばまで存在したようである。神山裕紀氏によると、昭和22年、東大入学の時、知人の先輩から「宗像塾」に入るよう勧められたそうである。

 「宗像塾」に関して、現在知り得ることは、残念ながら以上だが、「宗像塾」で育った先輩たちが、その後、各界で活躍され、宗像の人材育成に偉大な貢献をされたことは明らかである。

 

在京宗像郡人会

 戦後、十数年を経て、世情も落ち着き、宗像会についての要望が高まり、昭和34年(1959)、郡下の町村会長、議長会に諮って、「宗像会」結成の合意がなされた。そして翌年、結成総会が行われて、「宗像会」が発足した。当時の名簿を見ると、郡内の町村別に会員名、郡外として、福岡、北九州、大阪、東京の会員名、さらにアメリカ地区として、3名の終身会員が記載されている。会員数、642名。

 同時に、雑誌「宗像」も再刊されている。昭和43年の再刊17号で、通巻177号となっているので、いかに戦前から古い歴史を積み重ねてきたがわかる。

 この「宗像会」に先立って、東京において「在京宗像郡人会」が結成され、昭和31年(1956)、虎ノ門共済会館で発足の会合が行われた。

 そして、最高顧問に出光佐三(出光興産社長)、倉田主税(日立製作所会長)を迎えて、中央区銀座の出光興産本社内に事務所をおくことになった。世話人は占部真太郎(八幡化学工業常務・津屋崎出身)、岩佐忠(赤間)、魚住芳平(津屋崎)、城戸久(神興村)、千名三郎(岬村)、中野充(田島村)、吉武辰雄(東郷)、阿部俊介(東郷)の方々であった。なお、出光社内の事務所は、佐三氏の弟泰亮(監査役)が世話役をされた。

 そして、最初の会員名簿ができたのが、翌年、昭和32年6月。会員数は233名。名簿は2~3年ごとに出されて、昭和52年(1977)2月の最後の名簿まで続いた。会員数280名。

 昭和34年(1959)10月8日、虎ノ門共済会館で第三回在京宗像郡人会が約百人の会員が集まり開かれたが、その当時の様子が西日本新聞に掲載されている。

 一部紹介すると、『日本一の郡人会』と題して、 『会は出光泰亮、魚住芳平ら世話人の司会で始められ、安永渡平(八幡化学社長)が「三十年ぶりに東京に住むことになったが、これから郡人会の発展に尽くしたい」と挨拶、続いて出光佐三氏が「宗像の近況を報告する」と前置きして、宗像神社が面目を一新したことや、福岡学芸大学の宗像誘致運動のあらましを説明され、阿部清美参議院議員が学大誘致に努めたいと述べた。

 この後、懇親パーティに入ったが、倉田日立製作所会長、石松正鉄石炭協会長、吉田法晴参議院議員、赤間文三大阪府知事、中村研一画伯、吉武辰雄丸の内署長らが欠席とはいえ、出光、安永両社長をはじめ知名士が多く、会館の係員たちも“日本一の郡人会”と驚いていた。

 また出席者は県人会と違って知り合いが多く、共通の話題も豊富で、「オウ、アンタもこっちに来とったとナ」と旧友に再会した喜びや「ウーン、よう知っとるバイ、アンタがあれの息子さんですナ、うちに遊びにキンサイ」と友人の第2世の成長ぶりに喜ぶ声が聞かれた。みんなが誰にも遠慮がなく宗像弁を喋り、セイセイとした顔だった。

 そして昭和38年5月14日、第四回在京宗像郡人会は、新しく竣工した出光興産千葉製油所にて家族ぐるみの会を行い、参加者230名が皇居前のパレスホテルよりバスを連ねて訪問、東洋一の大製油所を見学して、パーティでは宗像弁が飛び交う楽しいひと時を過ごした。

 

宗高同窓会・東京支部の成り立ち

 皆さん、ご承知のように、宗像高校は昭和24年(1949)、戦後の学生改革により宗像女子高等学校と合併してできました。また、それぞれに宗像中学、宗像高女と遡ることができます。さらに宗像中学は戦前から戦後にかけて旧制、新制中学と制度が変っています。

 したがって、宗高同窓会には、こうした学制の変化があり、会員は宗像高校の卒業生ばかりではないことを付け加えておきます。

 さて、「宗高同窓会・東京支部」ですが、各年度の役員は、下記のとおりです。

 

●初代支部長、梅田 實氏(宗中1回・大正13年卒)は日本興業銀行役員や日本輸出入石油社長 などを歴任。宗中第1回卒業生として支部発足以来、ほぼ30年、平成2年、死亡されるまで東京支部の発展に尽くされた。

●二代目支部長には、神山裕紀氏(清水建設専務・後副社長)が平成3年(1991)11月就任。その後、10年間にわたって貢献された。

●また、その頃から世代交代で、高校卒が増え、副支部長に春川寿次郎が誕生した。そして、「宗高同窓会・東京支部」として総会も毎年開かれるようになった。

●三代目支部長には、春川寿次郎氏(宗高1回・昭和25年卒)が副支部長より引き継がれて、旭昭石油社長として職責の傍ら、東京支部の発展に尽力された。

●四代目支部長には、片山仁氏(宗高3回・昭和27年卒)元順天堂大学学長が就任して、多忙のなか、支部運営に新たな工夫、改善をされたが、三年余りで病のため逝去なされた。返す返すも残念なことであった。

●五代目支部長には田中孝(宗高7回・昭和31年卒)。副支部長、瀧口正寛、山本洋子で、平成20年(2008)11月。

●六代目支部長には瀧口正寛(宗高12回・昭和36年卒)が総会により選任された。

●七代目支部長には森誠(宗高18回・昭和42年卒)が総会により選任された。

●八代目支部長には竹西城太郎(宗高21回・昭和45年卒)が総会により選任された。

宗高同窓会東京支部 歴代役員名簿

支部長

梅田 實(中1回)

昭和31年

平成22年

平成26年

平成28年

平成29年

平成30年

令和2年

副支部長

石田正美(中1回)

山本洋子(高S30卒)

山本洋子(前記)

玉城喜代志(高S45卒)

事務局

田中政城(中17回)

麻生和正(中24回)

田中 寛(中23回)

太田哲雄(前記)

昭和61年

梅田 實(前記)

大和文夫(中11回)

永嶋弘康(高S32卒)

平成3年

神山裕紀(中19回)

春川寿二郎(高S25卒)

梶谷 巌(高S32卒)

平成13年

春川寿二郎(前記)

石松愛弘(高S26卒)

梶谷 巌(前記)

平成17年

片山 仁(高S27卒)

田中孝(高S31卒)

梶谷 巌(前記)

平成19年

片山 仁(前記)

田中孝(前記)

小田一秀(高S37卒)

平成20年

田中 孝(前記)

瀧口正寛(高S36卒)

山本洋子(前記)

小田一秀(前記)

田中 孝(前記)

瀧口正寛(前記)

森 誠(高S42卒)

山本洋子(前記)

太田哲雄(高S43卒)

田中 孝(前記)

平成23年

瀧口正寛(前記)

山本洋子(前記)

遠藤潤二(高S44卒)

瀧口正寛(前記)

壱岐貞利(高S40卒)

古瀬保子(高S43卒)

太田哲雄(前記)

遠藤潤二(前記)

森 誠(前記)

池田正則(高S44卒)

古瀬保子(前記)

太田哲雄(前記)

遠藤潤二(前記)

森 誠(前記)

竹西城太郎(高S45卒)

古瀬保子(前記)

太田哲雄(前記)

遠藤潤二(前記)

竹西城太郎(前記)

古瀬保子(前記)

玉城喜代志(前記)

遠藤潤二(前記)

福田満(高S47卒)

竹西城太郎(前記)

古瀬保子(前記)

花田亮(高S46卒)

福田満(前記)

小西政好(高S48卒)

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